よこすか探索(神社編)第4回は走水神社です。
走水神社は、12代景行天皇の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)と御后の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)二柱をが祀られています。
日本武尊が東国の騒動を鎮めるため走水の地を訪れた際、現在の御所が埼に御所を建て、軍船等の準備をし上総へ出発するときに慕ってくれた村人に自分の冠を与え、それを村人が石櫃に納め土中に埋めその上に社を建てたことから走水神社が創建されたそうです。
また、船出した日本武尊の軍船は、突然の突風で身動きが取れなくなりました。
その際、日本武尊に付き添ってこられた御后の弟橘媛命が、海中に身を投じると海は凪風は静まり軍船は水の上を走るように上総国に渡ることが出来ました。
それ以来水走る走水と呼ばれるようになったそうです。
また、弟橘媛命が御入水されてから数日して海岸に櫛が流れ着きました。
村人たちはその櫛を御所があった御所が崎に社を建て、櫛を納め橘神社としましたが、明治18年に御所が崎が軍用地になったため、橘神社は走水神社の境内に移され、明治42年に走水神社に合祀されましたそうです。
詳細については走水神社のホームページをご覧ください。
橘神社のあった御所が埼東海岸の砂が手水舎の傍らに奉納されています。
手水舎には河童の石造も…
これは水に縁の深い走水ならではかもしれません。
本殿裏には水神社もあり河童が祀られています。
走水神社には他にもさまざまなものが祀られています。
昭和47年建立された包丁塚は包丁と鳥獣魚菜類等食物に感謝するため、毎年5月5日に包丁供養祭が執り行われます。
また、この際には雅楽奉納や四条古流包丁式、居合 剣舞 試し切り奉納なども行われます。
包丁塚建立には様々な候補地があったそうですが、「三浦古尋録」に記載されている日本武尊の伝説からこの地に包丁塚が建立されたそうです。
日本武尊らが上総へ渡航の際、走水の御所ヶ﨑の小庵で海上の風波が治まるのを待っていました。
この小庵の主は、何かと日本武尊たちの世話をしていましたが、ある時、蛤の膾を食膳に供え献じたところ、とても喜ばれて、小庵の主に大伴黒主(おおとものくろぬし)という名を与え、都に帰る際に連れて行かれたと伝えられています。
また、昭和58年に建立された針の碑は針と衣類等に感謝するため、針供養祭が執り行われます。
針供養は通常2月8日に行われる行事ですが、走水神社では多くの方に参加いただけるよう3月の第2土曜日に行われます。
昭和50年に建立された弟橘媛命「舵の碑」は弟橘媛命の顕彰と海の安全と平和を祈るために建てられました。
そのほか、平成3年に建立された顕彰の碑は武尊と橘媛命の愛の御神徳を崇めるため建てられました。
さて、参道を真っ直ぐ行った急な階段を上ると本殿があります。
また、その横には弟橘媛命に殉じた侍女をお祀りしている別宮があります。
別宮の奥には弟橘媛命の記念碑があります。
東郷平八郎、伊東祐亨、井上良馨、乃木希典、高崎正風、上村彦之丞、藤井茂太の7名が発起人となり明治43年6月5日に建立されました。
7人は除幕式にも参列しているそうです。
正面には勲一等昌子内親王(明治天皇第6皇女)御染筆による弟橘媛命の今際の御歌が刻まれています。
また、裏面には建立の経緯が記されています。
ちなみに、本殿の反対側にはこの発起人の一人海軍中将上村彦之丞から走水神社に寄贈された機械水雷も置かれています。
さらに記念碑の先へ上ると、三社が祀られています。
真ん中に神明社、右側に須賀神社、左側に諏訪神社が祀られています。
それぞれ神明社は伊勢山崎に鎮座、 諏訪神社は御所が崎に鎮座、須賀神社は走水神社にありましたが、明治18年から今の場所でお祀りされるようになったそうです。
また、この三社の手前には旧稲荷社跡があります。
ここは西暦110年10月に日本武尊の一行が東征の途中上総国に渡る際に、走水を訪れ、蝦夷征討の祈願をしたと伝えられている祠のあった跡地だそうです。
そのほか本殿脇には稲荷神社も祀られています。
パワースポットとしても有名な走水神社…
毎年多くの方が参拝に訪れます。
ぜひ、走水神社に参拝し、パワーをもらってみてはいかがでしょう。
祭礼は須賀神社例祭(夏季例祭)が7月第3日曜頃、走水神社例大祭が10月第2日曜頃となっています。